中國西域旅行記 - その 13 -


22.死都・高昌故城−国破山河不在− -7日目-

 トルファンの街は駅から東に60km、アスターナ古墳までは さらに東に約60km弱行かねばならない。途中、右手にトルファンを 囲むポプラの林が遠くに望める。茶色い砂礫の上に輝く緑が熱気で 揺らいでいる、『絵に描いたような』オアシスだ。熱砂のなかで とろけたアスファルト道路を走ること二時間余り。午後7時頃に アスターナ古墳に着く。古墳といっても、説明書きのある石壁から ちょっと離れたところに2つほど地下への階段があるだけである。 アスターナとはウイグル語で『休息の場所』と言う意味なのだそうで、 かっての高昌国(AD442? or 450?〜AD640、街自体は14世紀頃まで存在)の 貴族の墓所なのだそうだ。とにかく暑くてたまらない、 ひっくり返した石の下から出てきた虫たちのようにわらわらと、 そのぽっかりと開いたその穴にみんな駆け込んでいく。 中がそんなに涼しい訳ではないがホッとする。 確かに「休息の場所(アスターナ)」である。 墓の主は張(チャン)さんで、地下には小さな部屋があり、 四つの壁画がある。なにかの説話を表わしているらしい。 が、説明を聞いて取ったメモは今見ると残念ながら意味不明である。 再び、外に出て別な墓へと入る。地下への階段を降り、木の扉の 向こうに進むと二体のミイラが出迎えてくれる。 ガラスの展示ケースの中に入ったミイラは夫婦なのだそうで、 すぐ目の前にあるミイラは眉毛が残り、入れ墨か化粧の痕跡が 分かるほど保存状態が良い。綺麗に保存され、生前の面影さえ残して、 静かに身を横たえている。恐ろしげな感じはしない。 エジプトのミイラは有名だが、様々な防腐処置をしてやっと ミイラにしている。しかし、南のクルクダグ山脈の向こうにある、 ウイグル語で『生きて帰れぬ』と言う意味のタクラマカン砂漠より暑く、 『火州』の別名さえあるこのトルファンでは、超絶的な乾燥気候と 90℃にも達する地表温による無菌状態のため、ただ埋葬するだけで、 皆ミイラとなる。シルクロードのミイラで有名なのはタクラマカン砂漠 東端において天山南道の要所として栄えた古代楼蘭王国遺跡で、 ヘディンらによって発見されたミイラがある。若くして死んだ その女性は船型の棺で眠り、誰の手向けか水鳥の青鷺の羽根が 添えられていたという。船まで通った塩沢(塩湖)ロプノールのほとりで 栄えた楼蘭は、そのロプノール湖に注ぐ孔雀河が流砂と堆積とにより 流れを変えてロプノール湖を干上がらせ、1000kmも湖を動かした結果、 文字通り世界から消え去った。やがて楼蘭はロプノール湖の 南西あたりへと位置も変えて“ぜん”(こざとへんのついた善)善と 名乗って生き延びるが、遂には4世紀前半に廃虚となる。 自らは輝かない宇宙の惑星が滅びるように、国家さえも人知れず 孤独にこの砂漠に飲み込まれ消えていく。シルクロードに栄えた 他の国々の滅亡年もほとんど“?”付きであり、高昌国は例外的である。

 アスターナ古墳から南に数キロの高昌故城に行く。 周囲5キロの遺跡の入り口に友誼商店がある。 門柱の陰で見たことも無い文字の本を読んでいた女の子は 眉墨を描いて左右の眉をつなげている、確かウイグル族の習慣である。 ロバが牽く大きな屋根の付いた荷車に乗って場内をめぐる。 かってこの地方の中心都市だった面影が僅かにうかがわれる 几帳面に日干し煉瓦を積み上げて造られた建物が、 まっ平らな地面の上に枯れ山水の石庭の上に浮かぶ岩のように 残っている。この中ではほぼ自由に行動出来た。 屋根を失った仏塔の中に入ってみると、かすかに仏画の痕跡が見られる。

 「地球の歩きかた」の受け売り(*1)だが、高昌国について 少しだけ紹介しておく。 高昌国のあった辺りはもとから伏流水となった天山山脈等の 雪解け水が湧き出るオアシスで、そのうち北涼の落人が街を 築いて交易都市とし、高昌国を名乗るようになったのが 5世紀の半ばである。天山南道の中継都市であった楼蘭王国が ロプノール湖の渇水で滅亡して、南道ルートがほぼ途絶えてからは 交易の利益で栄えた。当初、高昌国は朝献のお陰か、 西の烏孫(うそん)等の西域諸国や東の宋、隋らの憶えもめでたく、 6世紀初頭からはこの地方の国としては例外的に九代、 百数十年に渡って平和(≒戦争の無い状態)を保っていた。 高昌国は「寺院の数五十余り(大唐西域記)」もある熱心な仏教国であり、 唐の玄奘三蔵は九代麹文泰王のときのAD639年頃に高昌国を訪れ、 王に引き留められて数十日もの間ここで仏典の講義をしている。 高昌国への永住を強く請う王に対して、三蔵は天竺(インド)からの 帰りには必ず寄るという約束をして、多額の宝と従者や馬を つけてもらって、やっと旅立っている。

が、隋が滅び唐が興った頃から高昌国と西突“けつ” (くさかんむりの無い蕨;にしとっけつ)とは親密度を増していた。 そして、烏夷国が滅びた楼蘭国の交易ルートの復活を唐に申請し 許可されたとき、西突“けつ”と組んでこれを攻めた。 当時の王は中立を捨て新興の唐より西突“けつ”についたのである。 歴史上、中立を保てなくなった交易国家は必然的に衰退するようだが、 高昌国の場合はもっと苛烈であった。 ついに唐は、恐らくは西方の強国西突“けつ”とさえ剣を交える 決心をして高昌国を攻めたのである。 オアシス国家である高昌国は守りの堅さを利し、西突“けつ”の 援軍を得てシルクロードの中継点の独占的権益を守れると 思ったのだろうか……。 が、西突“けつ”にしてみれば、たとえ新興国とは言え唐は 大中国の覇者であり、彼らの交易品の最終消費者であり、生産者である。 中継都市に義理立てして大きな利を失う理由はない。 高昌国は双方から見捨てられたのだった。 彼らを守るはずの砂漠が逃げることすらかなわぬ砂礫の棺となり、 「高昌国」はAD640年に滅びた。 玄奘三蔵は天竺から唐への帰途にこのことを知る。

その後、「高昌」は主に歴代の中国王朝が管理する交易都市として 存在し、十四世紀末の蒙古族貴族の反乱で街自体も滅びてしまう。 我々が今強烈な日差しの下で見ているのは、まさしくそういった 歴史を歩んだ高昌という都市が、十四世紀半ばで滅びた瞬間を、 いわばミイラと化した廃虚なのだ。 積み上げられた日干し煉瓦はこの間敦煌の郊外で見た映画のセットの ものとなんら変わらないようにさえ見える。 600年間、この街は燃え上がるような火焔山の麓でその屍をさらし、 絶命の叫びを上げ続けている。暑さが来た頭で、 国破山河在(くにやぶれてさんがあり;春望/杜甫)というのは 緑豊かな黄河や長江流域でしか言えないことなんだなと思う。

 長いのか、短いのかさえよく思い出せない見学が終わって ロバの荷車に乗ってゴトゴトと戻っていく。 昨夜の寝台騒ぎでボロボロのはずのツアコンのN氏がいきなり 「S社恒例ばらまきクイズ」とわめきだす。 ついに頭が壊れてしまったのかと思ってみていると、 クイズを出して外れた人は馬車を降りて歩くのだと言う。 みんな冗談じゃないと言うが、強硬に始めるN氏、確か2、3問も 出題出来なかったと思う。 もちろん間違えたって馬車を降りた奴はいなかった。 そのうち横に乗っていた高昌故城のガイドの一家のアラビア系の 顔立ちの男の子がポケットからなにかを出してきて、 目の前に突き出す。古銭だ。 「古代銭(クータイデチェン?」(昔のお金?)と聞くと うれしそうにうなずく。 まず間違いなく、高昌故城の遺跡から掘ってきたものだろう。 とくに気を引くようなものも無かったし、 出国の際にばれでもしたらやっかいである。 「不要(ブーヤオ)、不要(ブーヤオ)」と首を振ると、 さっさとあきらめて、兄と馬車の上でふざけあい、 やがて意外と速いロバの馬車を追い掛けながら歓声を上げて走り回る。 「元気だよなぁ」誰かがだるそうに関心する。 山河も国も無いけれど人々はちゃんと生きている。 毎度お馴染となった生温いスイカをパクつく、 理屈を超えてうまいと感じる。生きてて良かったという感じである。 バスへと乗換え、ようやくトルファンに向かう。 熱した窓からトルファンの背の高いポプラ並木が見えたときの 嬉しかったことと言ったら、富士山に登ってへとへとになって 降りてきて、五合目で久しぶりに緑の木々を見たとき以上であった。

(*1) 色々探したが、他に高昌国について詳しい記述をした 本が無かった......。


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