中國西域旅行記 - その 12 -


20.シルクロードの長い夜

 夜店からホテルに戻って暫く後、車に乗り込み夜の砂漠の道を 2時間ひた走る。未舗装で車は大きく揺れるが悪路というほどでもない。 右左と体を揺らせながらもウトウトとする。夜半過ぎ、静まり返った 柳園に着く。柳園賓館で休憩しようと車を止めるが、入れてもくれない。 「ひどいホテルだ!」。王さん、蔡さんがかなりの剣幕で怒っている。 我々の方はまだのんきに「そういえばさっきの砂漠の途中でエンコしたら アウトだったな」などと話をしている。玄関ドアの向こうのカウンターから 「没有(メイヨー)」(無い、用意していない…等のときの決まり文句)ばかりが 聞こえる。柳園駅に着く。暑くて空気の乾いた待ち合いで列車を待つ。 その間に荷物を預けていたのだが、午前1時45分になって鍵の無い荷物は 預かれないと文句が付いて貨物室へ。虫の舞う蛍光灯の下、荷物の中に 立ったまま、食べかすを床に吐き捨てながらブドウを喰っている係員が じろじろこっちを見ている。鍵をかけるといっても半数以上の荷物は ただのバッグやリュックである。列車に持込みたかったが、それも できず1個二元の縁日で売っているようなちゃっちぃ鍵を買わされて しまう。おまけに、鍵をかけるときうっかりして中身のチェックを 忘れてしまう。

 のどが渇く。夜中でもやっている外の売店で3元のジュースを買う。 5元札を払う、が釣りをよこそうとしない。『これは3元じゃないのか?』と ジュースを指差し「3クァイ?」と何回か言うが、反応が無い。 とぼけるつもりらしい。「2(リャン)クァイ!」と何度も叫んで 『返せ!』と手招きする。やっと2元札が戻る。それやこれやで、 さすがに疲れ切ってしまう。

 午前2時10分、やっと列車が来る。やれやれと列車に乗り込む。 が、信じられないことに列車に空いてる軟臥(一等寝台、四人個室)がない。 スルーガイドの王さんと列車の服務員(乗務員)との間で激しい言葉の やり取りが始まる。何があろうと動じないツアコンのN氏が言う 「どうやら(中国)国鉄側が我々が予約していた寝台を途中の駅で2重に 売ってしまったようです」。辛うじて空いた四人用の1部屋に御老体たち 四人組がさっさと入って鍵を掛けてしまい、もう呼んでもドアを ノックしても素知らぬ振りを決め込んでしまう。

 後の14人は通路の引出し式の腰掛けや通路に座りこんでしまう。 王さんと乗客係の責任者らしい女性服務員とのやり取りの声が悪い 夢の中にいるように聞こえてくる。こんな深夜なのにやたらと服務員が 通路を通る。渡辺氏はすぐそばにあるトイレの臭いが気になって服務員が 扉を開け放して行ってしまう度に立って閉めに行っていたが、 やがて座ったまま動かなくなる。……柳園までしか寝台券が無いのに 居座って……、……いや、トルファンまで売ってしまったらしい……、 ……故意のダブルブッキングじゃ?……。 トゲの出てきた声でうわさ話が交わされる。ついに、服務員がなんと 寝ている人たちを部屋から追い出しにかかる。寝間着姿の家族連れらしい 四人が気の毒にも出ていく。そこに女性四人が入っていく。最初の寝台 個室もそうやって空けたらしい。が、それもここまで。他の客たちは 怒って部屋から出て行こうとしない(ちゃんと券を買ったのに夜中に 出て行けと言われれば当然だが)。仕方なく、硬臥を探してくれることに なる。あの『地球の歩き方』さえ、中国国鉄の硬臥は疲れているときには 奨めていない、冗談じゃないと言いたいが……。王さんが走り回って 硬臥を四つ見つけてきてくれる(多謝!)。2〜3人が下見に行く。 「硬座はまっ暗でスラムみたいだ!」、見てきた高桑氏がつぶやく。 結局、4人の女性は二段式寝台の上段の二つに寝てもらい、 下の寝台二つには6人が3人づつ並んで腰掛けて休み、4人が硬臥に行き、 ツアコンのN氏と王さんはどこか(?!)で休むことになる。私は、たとえ 腰掛けでも軟臥で休む方を選ぶ、午前3時すぎのことである。 結局ほんの1〜2時間ウトウトと出来ただけで朝を迎えた。

 8月15日、9時に朝食、全員が集まる。軟臥で“座っていた”男たちは ヘロヘロになっている。硬臥の4人の方がよほど元気だ。朝食は意外にも ロールパン、目玉焼、ジャム、コーヒーと揃った西洋スタイルだった。 ほとんど眠れなかったので呆然として朝食を食べる。ルームメイトの 山崎氏はずいぶんと元気だ。彼は「硬臥の方が眠れる!」と言う。 その助言に従って10時ごろ硬座の方にいく。目的地のトルファンまで まだたっぷり6時間はある。

 朝の光の中で見た硬座は決してスラムということはない。 ベストシーズンのアルプス行き夜行の方がよほどスラムである。 少なくとも座席と座席のすきまに体を突っ込んで満足そうに寝ている アナグマみたいなやつはいない。ほとんどの人が自前で用意した うどんやおかゆといった朝食を食べている。大体において中国の庶民の 食事はつましいようで、お昼もうどんやごはんに一品を付ける程度らしい。 硬臥の寝台は少し硬いが軟臥で窮屈に座っているよりよほど良い、 やっぱり体を伸ばして寝るのは気持ちいい。三段寝台の一番上に のそのそもぐり込む。日本の列車より二まわり幅のある車体の揺れは 心地良く、下の通路の中国語のざわめきを聞きながらうとうととする。

 12時半頃、横になるのも飽きて、ぼんやりと通路を眺める。 下の方で渡辺氏の話し声ががする。どうやら好奇心一杯の中国のひと逹に 捕まったらしい。なにやってんだと上の寝台から顔を出すと、 渡辺氏が「ボールペンをくれ」と言う。ペンを渡して下を見ると、 通路の引き出し椅子に座っていた男と目が合う。男が手招きする。 こうなると降りて行かないわけにはいかない。降りていくといきなり 4、5人が中国語で話し出す。とにかくまずは自己紹介、メモを見て 自分の名前を言う、「我叫村主文隆(ウォージャオ ツンチュウ ウェンロン)」*1。 が、どうも肝心の名前が通じない。すると、みんなが私のメモを のぞきこんで丁寧に発音してくれる。あらためて自分の名前を 中国語で言われると、かなり恥ずかしい。今度はこちらが聞く番だ、 「ニングェイシン?」(あなたのお名前は?)。男が自分の名前は 『楊(ヤン)』だと答えてくれる。

 やっと雰囲気がほぐれると、楊氏はしきりにタバコを奨める。 要らないと言っても受け取るまで待っている。 中国ではまず一服から話が始まるのだそうだ。仕方が無い、とにかく 一本もらって、彼のタバコから火を移してもらう。乾燥しきった空気の 中のせいなのか別にせき込みもしない。それにしても、まさか トルファン盆地を走る夜行列車の中で初めてタバコを吸うはめになるとは 思わなかった。

 本格的な会話となるが、主に買物と緊急事態に備えて TV中国語を10回ほど見て覚えた語学力ではとても追いつかず 当然のごとく筆談になる。楊氏はなんでも新橿ウイグル自治区で 建城局(建設局)に勤めているそうで、5歳の娘の夏期学校のため上海に 行っていたというのだ。横で着飾った娘さんが興味深そうに二人の筆談を 覗き込む、どうも読めるようだ。さすがは漢字の国! リャウとか言う 名前らしい。一般に中国の特に都市部の漢族の子供は日本人の子供より、 そして親よりもよほどよい身なりをしている。一人っ子政策のせいらしい。 「ワタシ電脳(コンピュータ)ノ研究者アルヨ」、などとお互いの 仕事などを紹介していると、さらさらと書かれた文字にぎょっとする。 『お前は出国許可やフージャオ(パスポート)を持っているのか』、 そう書いてある。眼が少し真剣である。実は硬臥(二等寝台)と言うのは 基本的に自国人向けで、駅によっては外国人には売らないところも多い。 またこれだけの長距離(柳園-トルファン間で800km、上海-トルファン間だと なんと3200km以上)になると個人旅行者でも軟臥にする。 怪しまれているのだ。団体旅行だから問題無いと答えると、ふんふんと うなづいてくれる。とにかく、筆談でもちょっと込み入った表現は もうお手上げで、「我学習*語(中国語のこと)一月」(*さんずいに又)と筆談で 言い訳をする。日焼けしているせいかとても29歳に見えない楊氏の 好きなのは山口百恵と中野良子と高倉健だそうで、今どうして いるのかと聞く。山口百恵は結婚して引退したが まだ大スター(“スター”と言う言葉はそのままで通じた)で、他の二人も 大スターだと言う(書く)とフンフンと嬉しそうにうなづいていた。 ついでに中国で'91年当時人気絶好調のテレサ・テンは好きか? と聞くと ニカッと笑った。30分以上も話(筆談)をしたが、とにかく、好奇心一杯で 思い付くかぎりのことを聞き、こちらの答えにいちいち大げさなほど 反応し、陽気に笑う、本当に楽しい。公営の店やホテルでの ぶっきらぼうさとは大違いだ。列車のトイレに行ったときには、 見知らぬ人が順番を譲ってくれる。こういうことは旅先ではえらく 感動するもので、昨夜と今ではこの国への印象はまさしく夜と昼ほど 変わっている。ユーラシア大陸の真中の乾燥した大地を長大な広軌の 列車は悠然と走る。車窓から通路へと吹き抜ける風が壮快な気分にさせる。

トルファン駅→ 

 14時に昼食、今度は中華料理だった、よほどのどが渇いていたのか メモには『ジュースをがぶ飲み』の一言しかない。外には土と砂利とが 不毛の岩山を背景に火星のような景色を見せている。我々が入れなかった 軟臥の部屋には日本人の個人旅行者が四人入っていた。硬臥を見直した 私に大学生らしい男が言う「いや硬臥は長距離ではきつくて やってられませんよ」。まあ自分で宿も乗り物も手配しなければならない フリーの旅行では硬臥で長距離はきついのだろう。話をしているうちに、 飲んでいたジュースのビンを窓の外に投げて捨てて言う、 「こうやって窓の外に捨てられるビンが無くなるとビン拾いの人たちの 仕事が無くなるそうですよ」。列車は4時間遅れだとガイドからの 知らせが入る。

 午後4時半列車は気温45度の灼熱の大地トルファンに着いた。 強烈な日差しが文字どおり皮膚につき刺さって来る。


21.火焔山

 ……三蔵らは、秋の霜を踏み砕きながら旅をつづけた。 と、そのうちに急にそこらが、蒸すように暑くなった。 ……(略)……踏んでいく道が熱した鉄板のようだ。三蔵がさすがに 心配しだしたものである。「悟空や、どこか、このあたりで聞いて みないか。どうしてこんなに熱いのか」……(略)……老人は金歯を きらめかせながら、「この向こうに火焔山と言うものがございます。 この辺はそのせいで、四季を通じ、このとおりですのさ」 「すると、 西へは通れましょうか」 「それは無理じゃ。火焔山が西へ行く道の 途中にございますのと、八百里*2の山全体が猛火に包まれていますので、 どうして通れますものか」 [現代思想社 村上 知行 訳「完訳 西遊記」下巻より*3]

 トルファン駅はトルファンの街から60kmも離れている。 駅のまわりには簡易宿泊所くらいしか無い。どこに線路を敷いても 同じなのに、どうしてこんな不便な所に造ったのか? お役所仕事って ものなんだろうか。現地ガイドは日に焼けた新疆(シンチャン)の プレスリーのような男である。名前は忘れた。ポロシャツを着て クラッチバッグを小脇に抱えている。金持ちそうである、と言うことは ガイドの中の実力者で、我々を待っていたのは中古ながらも冷房の 効いているバスである。実力者ということは頼りになる反面、当然 戴くものは戴く方針なわけで注意しないとぼられる。そこはかとない 感銘を我々に残した敦煌のガイドの蔡氏もマイクロバスの運転手から リベートをもらっていた。いわゆるバックマージンであるが、 やり方がお粗末というか正直というか、我々が玄関先にいる間に 受け取ってしまい、ツアコンのN氏が舌うちしながら「しょうがないなぁ、 見えないところでもらえって言ってあんのに」と私達にぼやいていたのが 印象的だった。ガイドという職業がおいしいのはこの点である。 CITS(中国旅行社)は官営だが、実際には宿や乗車券の手配、現地での 車の配車、観光地や劇場への入場、はてはトイレの確保に至るまでを どうするかは全てコネによると言って差し支えない。だから、 いかに多くのコネを持っているかがガイドの腕になるのだ。当然、 ただではコネは出来ない、コストは観光客に来る。実際、彼はこの後 ウイグルで驚くようなことをしてくれるし、それ以上の出来事が その後も起こる。コネさえ有れば、通常の煩雑で、しかもへたをすれば 例の「没有(メイヨー)」の一言で無に帰する手続きを一気にジャンプできる。

 地球の歩き方にも書いてあったが中国人の人間関係には三つの 同心円がある。それぞれの円の内側には家族、親族、コネクションの ある知人がおり、その外に赤の他人がいる。それぞれの円(≒縁)の 壁ははっきりしている。外国人はさらにその外で、異星人と言っていい。 だからこそ、無闇にあがめたり反発したりするようだ。異星人扱いを 逃れたいなら片言でも中国語を話せれれば良い。この旅行記からも 少しは分かると思うが、昔の日本人以上に中国人は中国語(ハンユイ)を 特別だと思っているので、話せると分かると明らかに態度が変わる。 どう変わるかと言えば、自由市場の売り子逹は山ほど中国語を浴びせる 代わりに値段を少しはまけてくれ、一流ホテルのフロントは一ランク 下の客として扱ってくれ、乗り物のなかでは質問責めにしてくれる。 誠に有り難い。

 さて、40人は乗れるバスに乗って席につくと、なにかシールが 貼ってある。『宮城県 遠刈 (?)福みやげ店』と辛うじて読める。 「おい、これ日本のバスだよ」「こんなところまで持って来てんのかぁ」。 そのうち誰かが窓ガラスが熱いと騒ぎだす。確かにお湯をいれた コップに触るような感じがする。日陰の窓も大して変わらない熱さだ。 北側には赤い壁のように空を遮る山がある。長さ東西に100km、幅10km、 海面下150mのトルファン盆地から標高851mにそびえる山は現地の ウイグル語で『紅い山(キジラタック)』、中国語では『火焔山』と言う。 あの西遊記では三蔵法師一行の行く手を炎で遮り、孫悟空が牛魔王を 倒して手に入れた芭蕉扇で火を消した山である。実際には山というより 山脈なのだが、峰一つ一つに名前を付けるといった面倒なことは していない。

 砂礫と土の砂漠のなかの舗装道を走っていると地面が深くえぐれている。 まだ湿っているところもある。この炎天下に道路補修をしていて、 道の両側にはこんもりと土を盛ってある。なんでも、最近、雪どけ水で 洪水が起きたとのこと。本当のところはもう少し違っているようで、 この連載を送っている大学時代からの親友Y氏に、JUNETに連載された 『シルクロードの歩き方』という、約六週間(うらやましい!!)かけて シルクロードを中心として旅行した旅行記をもらったのだが、 それによると直前までトルファンは記録的な冷夏で、あげくに 『お湿り程度』の雨が降り、雨水が盆地に一気に集中して洪水が 起こったらしい(幅50mの川が出来たと書いてある)。

 この山の北に敦煌・莫高窟と同じくベゼクリク千仏洞があるが、 時間が無いのでカット。アスターナ(阿斯塔那)古墳とトルファンの 街からさらに60km東の高昌故城へとまわってから、再び火焔山に戻る コースになる。とりあえず先に火焔山の話からする。

 バスからでるとストーブのすぐ前にいるような熱気が全身を包む。 気温は50度近く、地表の温度は80度以上あるらしい。地面からの 照り返しと透き通った太陽光で皮膚がピリピリとする、皮膚感覚と しては、以前入ったドライサウナに似ている。非現実的な暑さと 極度の乾燥は暑いというより『熱い』と感じさせる。道路の解けきった アスファルトに足を取られかける。尖った石ころだらけの地面を 火焔山に向かって歩く。靴の甲が燃えているかのように熱い。 眼の前の赤茶けた山壁の火焔山の姿が奇妙なくらいはっきりと見える。 ツアコンのN氏が言う「登るんならどうぞ、ここで待ってますよ」。 が、とてもそんな気は起きない、山としては難しくも ないのだろうが……(誰か登ってみてはどうでしょうか?)。 みんな写真を撮ったりして結構はしゃいでいるのに、なんとなく 生気が無い。

 ←火焔山

 後で思い返してみると、自分がそこにいるのにまわりの光景が幻で あるかのような、そんな不思議な感じがずっとしていた。もの凄い 暑さなのだが全身の汗はすぐ蒸発し、流れ落ちることもない。 これが続けば脱水症状になるのだが、むしろ心地良いくらいであった。 そして、燃えつきるような暑さなのになんの物音もしないのだ。 そういえば話し声も物音も空に吸い込まれるように消えてしまっていた。 実在の玄奘三蔵が書いた「大唐西域記」で、砂漠のなかでは 『時に歌嘯(かせう)を聞く』と言ったのは吹き渡る風の音だけを 指しているのではないのではと思う。この砂漠の沈黙の炎熱のなかで 道を失った旅人たちは、幻の歌を聞きながら静かに骨になっていった、 そんな気が今している。


*1 自分の名前だけ中国語読みを紹介するのは良くない(面白くない)ので、 いくつか例を示しておきたい。まず、日本最多の「鈴木さん」は 「老(小)リンムゥ(lao(xiao) ling mu)」となる(老(ラオ)は年上、 小(シャオ)は年下につける親しみを込めた呼称で、敬称は 先生(シェンション)(特に外国人の場合)、昔は一般的だった 同志(トンジィ)はやや古風かも)。一文字の名字は呼称や敬称をつけると 更にそれらしくて、例えば「森さん」は「ラオ セン(lao sen)」、 また「柏さん」は「柏先生(パイシェンション)(bai xiansheng)」となる。 (bの音はpの強勢の音で、ビに近いピ。gもkの強勢)。 (文字の意味・用法によっては多少読みが違うのでご注意を。)

*2 中国の1里は約0.4km、だから一万里は約4000kmになり、 「万里の長城」は決して誇張した表現ではないことがわかる。

*3 漢文訳の硬さがまったく無くて、非常にこなれた軽い文章で 読みやすい。


あむりすホームページに戻る
目次に戻る
続きを読む